『善の研究』 西田幾多郎著(その4)

第一編 純粋経験
第二章 思惟 (続き)

関係の意識をも経験の中に入れて考えてみると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができる。(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊19頁。以下「同上」とする)
またまた糞味噌論理(失礼)と言いたくなるが、おそらくこのあたりで高橋里美もプッツンと切れたのだろう。前章で確か西田自身「意味とか判断とかいふ如き関係の意識」といい、「現在の経験ではなくして、意味となる」といっている。つまり関係の意識である意味は純粋経験になりようがないのだ。シニフィエ(意味)はシニフィアン純粋経験)ではない。
その舌の根も乾かぬうちに、「関係の意識をも経験の中に入れて考え」るなどとなぜ言えるのか?これでは純粋経験はなんでもアリになってしまうではないか。
私も西田の真意はよく分からないのだが、どうもシニフィエである意味自体がシニフィアンになるような状況を考えているようだ。ロラン・バルトコノテーションである。
コノテーションとは文章の意味(シニフィエ)自体がシニフィアンになって言外の意味を生むというアレだ。
その時、「思惟の作用も純粋経験の一種である」というのである。これは味噌と糞が一緒になるのではなく、思惟自体がシニフィアンになることもあると言っているのではないか。
あくまで「入れて考えてみると」その場合は成り立つと言っているのである。
いかに西田とはいえ、関係の意識がそのまま純粋経験だとは言えないだろう。シニフィエシニフィアンと区別される。しかしシニフィエ自体がシニフィアンとなるコノテーションの場合もあると解すると西田の言うことに矛盾はないことになる。言語自体がメタ言語へ向かうことと、純粋経験の統一がより大なる統一へ発展することは相即しているように思われる。
次の展開は、表象と知覚与件が同じであるという前章の立場を敷衍して説明している。
思惟と知覚的経験の如き者とを同一種と考へることに就いては種々の異論もあるであらう。(同上20頁)
それは異論があるだろう。西田はこの世がマトリックスだと言っているのだから。斎藤環によると、精神分析でいう想像界とは、普通の人が考えている「現実」のことなのである。具体的な感覚与件もイメージも夢もすべて同じ想像界に属する。象徴界はプログラム・コード、現実界はハードウェアであるという。だからマトリックスなのだ。西田も同じことを言っている。普通の人は(私もそうだが)思惟が想像であり、知覚的経験が現実であると明確に区分している。西田は想像も現実も同じだと言うのである。
すると西田が言っていることは、思惟とか知覚的経験はそれらが相互に関係づけられるとき意味を生成するが、それらが意味以前の統一になるとき純粋経験になるということである。そして主語と述語を結合するのは純粋経験(意味以前の統一)である。
つまり思惟や知覚的経験が個々の純粋経験であるときはシニフィアンとして象徴界を形成し、相互に関係づけられるときはシニフィエとして想像界を形成するのである。そして意味以前の無意識の統一がシニフィアンの結合(連鎖)を生み出すのである。
思惟は単に個人的意識の上の事実ではなくして客観的意味を有って居る。(同上22頁)
ここで初めて西田は「個人」を持ち出す。だがこの「個人的意識」は可憐である。あたかも思惟という大海に浮かぶ幻のようだ。思惟自体が客観的意味をもっている。しかもそれは個人的意識ではないというのである。どういうことか。
西田が「意識」という時は要注意であり、それは常に無意識まで含めた幅のある意識である。つまり注意の焦点に限定した現在意識は純粋経験として意味以前の無意識になり、関係の意識は意味になる。
そして次の段落で西田が「意識体系」というとき、その「意識」は意味以前の純粋経験としての意識の体系である。つまりシニフィアンの体系なのだ。
同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのである。(同上23頁)
これは同一の意識(シニフィアン)はその入り込むシニフィアンの体系によって異なる意味を生ずると言っているのである。例えば「犬」は生物学のシニフィアン体系においては可愛い犬であるが、犯罪者のシニフィアン体系においては「警察の手先」である。
このように解すると、次の文も単なる御託宣ではなく、それなりにつきつめた思索であることが分かる。

如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかと言ふに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、之と衝突した場合を偽と考へるのである。(同上23頁)
つまり生物学のシニフィアン体系において「あの犬が裏切った」は偽であるが、犯罪者のシニフィアン体系においては真である。そしてこんなくだらない例ではなく、思想としてふさわしい主語と述語の結合を考えてみると、確かに純粋経験の統一に従う意識体系(つまりシニフィアン体系)に合致するものが真理であると言えよう。ここで西田の言っていることが分かり難いのは、最大最深なる体系が何であるか明示されていないからだ。
そしてラカンとの差異もここにある。つまりラカンでは父の名によって象徴界に自己が登録されることにより想像界が秩序づけられる。ということは自己(主観)のアプリオリな形式に合致する命題が真理であるということであろう。これに対し西田の象徴界は、象徴界自らが自らを秩序づけることになる。だから最大最深の体系とはそういう無意識の統一に合致した言語体系ということであろう。
西田はその体系が何であるか明示していないが、いくつかの特徴を示している。
一つは「自ら己を発展完成するのがその自然の状態である」
また、「発展の行路において種々なる体系の矛盾衝突が起こってくる」
仮にこの体系を科学と哲学との大統一理論であるとすると、確かにそのような理論に関しては、人がなぜ探究するのか理由も分からず探究するのであろう。否、そのような統一理論への前哨であるところのすべての学問的探究にはその真の動機が分からないのである。背後に純粋経験の統一があって自ら発展すると言われればそれはそうかもしれない。
またあらゆる学問的探究が試行錯誤である以上、仮に立てられた仮説は種々なる体系として矛盾衝突が起こるであろう。よって「最大最深の体系」がどのようなものか自ずと明らかである。大体、そんなイメージではないかと私は理解している。
それでもなお純粋経験というこのノエシスなきノエマ的対象が何をもって統一されているのか、未だ不明である。あるいは統一する主語がないとも考えられるが、すると純粋経験とはそれ以上問うことが不可能な根源的所与ということになる。もちろんそれはそうであるが、西田は探究を停止しない以上、今しばらく付き合う必要がありそうだ。