『善の研究』 西田幾多郎著(その5)

第一編 純粋経験
第三章 意志

この章では、意志と知識が同じものだということを純粋経験の統一力によって延々と説明しているだけである、ように見える。
もちろん、今回も「意志」の名を借りて純粋経験の本質を探究しているのである。
表面的に読むと西田は「統一」をキーワードにして何もかも一緒くたに結びつけているように見える。読み進むうちに、その論理が単調に見えてくるのを禁じ得ないのであるが、私に言わせると、読書の快楽とは与えられるものではなく、自ら生み出すものである。そこで私は<意味以前と以後>というキーワードで「統一」に種別性を付与してみたい。
これにより運がよければ見かけの単調さの陰に少なからぬ複雑さがみつかるかもしれないし、見落としていた言葉の前で立ち止まることができるかもしれない。
西田自身、意味が生成する瞬間を次のように記述している。
表象であっても、感覚と厳密に結合して居る時には直に一つの経験である。唯、之が現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意味となるのである。(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊13頁。以下「同上」とする)
ここで「他の意識と関係する時」が分岐点である。この分岐点より前に意味は存在しない。意味が生じるのはその後である。ということは純粋経験には意味がないということである。(だから私はシニフィアンとしたのだ)
したがって西田のいう「意識」にも発展段階がある。他の意識と関係する前の意識は意味が不在なので「無意識」となる。西田が純粋経験を現在意識としながら、しばしば無意識の統一力というのはそういうわけである。
すると、「意志」と「知識」についても同様に意味以前と以後の発展段階があるはずである。
西田の単調さは、異なった事柄を同じ言葉で説明するからであるが、注意深く読むと厳密に区分されていることが分かる。
そこで私としては便宜上、意味以前の意志を<衝動意志>、意味以後の意志を<目的意志>ととりあえず命名したい。また、意味以前の知識は<客観知識>、意味以後の知識は<主観知識>である。西田がこのような区分を行わなかったのは、おそらく主体を前提とするような区分を回避したためと思われる。だからこれはあくまで解読のための便宜上の区分である。本文に即して検証しよう。
意志といへば何か特別なる力がある様に思はれて居るが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない。(同上28頁)
これが「意志」の最も初源の定義であるが、心像と心像との関係であるから意味が生じているように見える。しかし、ここで「推移の経験」と西田が言っていることに注意しなければならない。西田が「経験」と言うとき、それは純粋経験なのである。そして音楽家の演奏のように心像が推移する場合でも、意識統一があれば純粋経験としているのだから、この箇所の意志は意味以前の意志であり、<衝動意志>と考えられる。そしてその場合の具体例が、「この事は最も明に所謂無意的行為の如き者に於て見ることができる、前にいった知覚の連鎖のやうな場合」であるから、明らかに<目的意志>ではない。
では意味以後の<目的意志>はどのように生じるのか。
普通に意志といふのは運動表象の体系に対する注意の状態である。(同上29頁)
ここでいう「運動表象の体系」がどういうものか西田はほとんど具体例を示さないので自分で考えてみる必要がある。しかし、西田の乏しい例を尊重すると、「一本のペン」である。そして「運動表象の体系」とは「このペンは文字を書くべきものだというような連想」ということである。
西田の説明はこれだけだが、これがなぜ「体系」になるのか不明である。
そこで西田は「連想」と言っているのだから、次々に「ペンで書く」「ペンを買う」「ペンにインクを入れる」「ペンを投げつける」・・・などと連想してみる。するとこれらの「運動表象の体系」に対して、どれかの表象(例えば「ペンで書く」)に集中したとき、それが意志だと言うのであろう。
このように解すると、これが意味以後の意志であり「目的意志」であることが分かる。
なぜなら「ペンで書く」という表象の意味が、他の「ペンを買う」・・・等々の表象との差異によって生成しているからだ。
もちろん、「ペンで書く」という表象自体、意味があるではないかと反論されるかもしれないが、そのとき意味があるのは自己との関係意識として反省しているからであり、西田が言うように「ペンで書く」ことに没頭していれば、純粋経験として意味が消去されるのである。私が純粋経験シニフィアンとするのはそういう理由である。
このように見てくると「目的意志」というのは、西田にとっては通常考えられるように人が主体となって目的を立てて欲求することではなく、様々な行為のイメージの差異から意味が生じることを指しているようだ。
つまり西田は様々なイメージから意味を削ぎ落として純粋経験とし、それらの相互関係によって意味を生成することにより、純粋経験シニフィアンとする独自の言語を構想しているのである。
このように解することで、なぜ「意志」を論じるにあたり「運動表象の体系」を持ち出すのか、その理由が明確になるのである。