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『善の研究』 西田幾多郎著(その6)

前回、私は西田の意志論は言語の創設であるという説を提示したが、西田にとっては意志と知識が同じなのだから、何ら不思議なことではない。
西田にとって何かを意志するということは、同時に何かを意味することなのだ。そして通常の意志概念と異なり、意志は外に現れることを要件としない。
動作は必ずしも意志の要件ではない。(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊28頁。以下「同上」とする)
ただ、そこには段階がある。衝動意志は言語ではない。衝動意志(表象)が他の衝動意志(表象)と関係をもつとき言語(意味)が発生する。それが目的意志だ。
知覚は一種の衝動的意志であり、意志は一種の想起である。(同上30頁)
この文章はうっかり読むと、AはBであり、BはAである、と言っているようにみえる。
しかし、そのように読むと、知覚が想起になってしまう。西田の「想起」とは「記憶表象の純知識」(同上31頁)であり、知覚とは異なるはずである。つまり前のAは後のAではない。故に中間の二つのBは異なる。この「衝動的意志」と後の「意志」が異なることに敏感でなければならない。ではこの文章は何を言っているのか。
「知覚は一種の衝動的意志であり」が意味発生以前の意志であり、「意志は一種の想起である」という場合の「意志」は意味発生以後の意志である。だから、この意志には「衝動的」が抜けているのだ。つまり後の意志は私のいう(目的)意志である。私は決して勝手に意志を二つに分けているのではない、西田が衝動的とそれ意外の意志に分割しているのである。すると次の文が明瞭になる。
嘗ていった知覚の連続のやうな場合では、未だ知と意と分れて居らぬ、真に知即行である。(同上36頁)
この文章を読んで、「知行合一」などとつぶやくのは、誤読もはなはだしい。西田は「知覚の連続のやうな場合」が「知即行である」と限定的に言っているのである。
「知覚の連続」とは何か、音楽家の演奏であり、断崖絶壁の登攀である。これらは無意識的統一として意味以前の純粋経験である。この段階では知と意が分離していない。これが「知覚は一種の衝動意志であり」の意味である。そして音楽家の集中は赤子の無心状態に等しいということである。陽明学とは何の関係もない。
純粋経験の立脚地より見れば、運動表象に由りて身体の運動を起すといふも、或予期的運動表象に直に運動感覚を伴ふというふにすぎない、此点に於ては凡て予期せられた外界の変化が実現せられるのと同一である。(同上34頁)
つまり純粋経験においては自分の体と外界の区別がつかないということである。西田のいう「知即行」はここまで徹底しているのだ。だが私はここまで徹底した知即行は、もはや知も行もないと思う。すなわち無即知行である。
この意味も言語もない、自他の区別もない初生児の心のような混沌としたものが「純粋経験」であり、分化発展して成長した成人の心も、何かに集中しているときは同じであるというのだ。それが西田の思想である。
そして第二段階の「意志は一種の想起である」についてである。
この意志がなぜ想起であるのか。西田は「想起」を「記憶表象の純知識」であるとしている。そして「記憶表象」は「運動表象の体系」と「知識表象の体系」に分かれる。西田にとって例えば「一本のペン」が「運動表象の体系」に属しているとき、それは体系の中の差異により意味を生じ何らかの目的意志となる。同様に「知識表象の体系」に属するとき、それは知識になる。
例へば此処に一本のペンがある。之を見た瞬間は、知といふこともなく、意といふこともなく、唯一個の現実である。(同上38頁)
ここで西田が「現実」というのは、純粋経験のことであろう。知と意が区別されていないのだから。
知と意との区別は意識の内容にあるのではなく、その体系内の地位に由りて定まってくる。(同上39頁)
ここで「体系」といっているのは、運動表象、知識表象の体系のことであるが、それは純粋経験シニフィアンである表象)の体系である。
つまり、一個の純粋経験(ペンの表象)が他の純粋経験の体系における地位により、他の表象との差異によって意味が生じる。それが体系の種類により意志としての意味あるいは知識としての意味に区別されるというわけである。
西田が純粋経験シニフィアンとする独自の言語を構想しているというのは、そういう意味である。
西田哲学にリアリティがあるとしたら、それは誰もが初生児の段階を経ているということであり、そこに純粋経験が実在していたことにある。そこから出発して純粋経験シニフィアン)の差異の体系を生み出している。これが意味生成としての言語である。
したがって純粋経験を志向することは大義のために自我を滅することではない。今生きているこの現実、例えば私はワケの分からぬ文章をタラタラ書き続けているが、これが同時に赤子の心でもありうるとしたら、それは驚くべきであると自覚することである。
純粋経験に帰ることは不可能である。しかし、それはいつでも私である。そうした差異の共存が孕む緊張を生きることが純粋経験である。
私の解釈する純粋経験の例として、プルーストの幼い頃の回想がある。もちろんこれはノスタルジーではなく現在における生の探究(recherceつまりリサーチ)である。すすり泣きである幼児期の純粋経験と大人としての現在との差異的共存が文学の創造になることを示している。
そのすすり泣きは、ほんとうはけっしてやむことがなかったのだ、そしてそれがまた私の耳にきこえてくるのは、生活がいま私のまわりにいっそう深い沈黙をまもっているからにすぎない、あたかも修道院の鐘が、ひるのあいだは鳴っていないのかとおもわれるほど町の騒音に被われているが、夕方あたりが静かになると、ふたたびひびきはじめるように。(『失われた時を求めてプルースト著 井上究一郎訳)