『善の研究』 西田幾多郎著(その7)

第一編 純粋経験
第四章 知的直観

この章は第一編の最終章であり、純粋経験の総括のようである。知的直感とは大雑把な印象では純粋経験が分化発展した極致のように思われる。
「知的直観」などと言われると、是非自分も身につけたいといふ気になる。
そこまで行かなくても、その本質を知ればいつかは自分にも知的直観が得られるのではないか。そんな淡い期待に夢が膨らむのである。はたして西田哲学は本当に使えるのか?
モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のやうに、その全体を直視することができたという。(『西田幾多郎全集第1巻』岩波書店刊41頁。以下「同上」とする)
西田は知的直観についてモツァルトや画家の「筆自ら動く」のような例をあげているが、残念ながら私は音楽も美術も詳しくないので、言っていることがよく分からない。
ただ西田は常にゲーテショーペンハウエルなどの偉人とともに、初生児や嬰児に言及している。昔は私も赤子であったから、これなら分かりそうだ。
ショーペンハウエルの意志なき純粋直覚と云ふものも天才の特殊な能力ではない、反って我々の最も自然にして統一せる意識状態である、天真爛漫なる嬰児の直覚は凡て此種に属するのである。(同上42頁)
ここでいう「嬰児の直覚」について私の記憶は失われているので、「此種に属する」と言われてもどんな種か分からない。それがどういうものか西田の説明を辿って想起するしかないのだが、少なくともモツァルトよりは接近しやすいだろう。とりあえず、この章で初めてでてくる「直覚」が何であるか確認したい。
純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、此等の差別は反って此等を超越せる直覚によりて成立するものである。(同上42頁)
つまり「直覚」が時間、空間、個人の差別を生み出しているのだ。
また「直覚といふ点に於いては普通の知覚と同一であるが、其内容に於ては遙に之より豊富深遠なるもの」というように、通常の知覚よりも豊富深遠な知覚ということらしい。
こうしてみると西田のいう「知覚」は現象の差別相のミニマムにおいて生じるものであり、「直覚」は差別相のマキシマムにおいて成立するものと思われる。すると「嬰児の直覚」とは形容矛盾ではないか。
私は西田の純粋経験をめぐる考察のすべての矛盾が、この「嬰児の直覚」に集約されていると思う。常識で考えても、また西田の書いているものからみても、嬰児には知覚しかあり得ないはずである。何しろ西田自身の説明でも自分の体と外界との区別もつかない主客未分の状態であるから、差別相はミニマムのはずである。
ここまで述べれば、前回まで私が手探りで言い当てようとしたことが、「知的直感」において確証されていることに気づかれるであろう。つまり「嬰児の直覚」とは嬰児の心と現在の心との差異的共存である。だから矛盾した表現とならざるを得ないのだ。

意識の背後に無意識が隠れているのではない。意識とは無意識の仮装なのだ。同様に、現在の大人の心が嬰児の心を想起するのではない。嬰児の直覚が変身したものが、大人の心である。それは常に無意識の統一力として中核に存在しているのだが、そのことに気づかないだけである。
この章ではタイトルにふさわしく、モツァルトを初め、プラトー、スピノーザや、宗教家まで登場し「真の宗教的覚悟」にまで言及して格調高く終わるのであるが、眩惑されることなく西田の主張を丹念に読むと、それらがすべて「抽象的知識でもない、又単に盲目的感情でもない」「一種の知的直観」(同上45頁)に還元されていることが分かる。そしてその知的直観とは「嬰児の直覚」なのである。
西田哲学が使えるかどうかはともかく、これは西田の出発点であり、私の見るところ出発点からして既に相当「豊富深遠」であることは納得できた。