『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その16)

第三部 感情の起源および本性について No4 

定理6 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。

定理7 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。

定理8 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、限定された時間ではなく無限定な時間を含んでいる。

これらの諸定理でスピノザが言おうとしているのは、神(自己原因)と神が産出した様態(おのおのの物)との本質の比較である。

神は自己原因としてその本質に存在を含んでいる。ではその被造物の様態の本質には何が含まれているのか? 外からの原因によって自己の存在を失う物は、その本質に存在が含まれていない。

これまで述べてきたように、本質は無時間的であり永遠相であるから、本質に存在を含む物が滅びることはあり得ないのである。同様に本質が無である物は存在することもできない。

ところが様態(人間・事物)は一時的に存在するが、外的原因により滅びる物でもある。

だから人間・事物には本質はないということもできるが、もし本質が無であるなら一時的にもせよ存在することはあり得ない。何らかの本質があるはずである。

一時的に存在する可滅的な私の本質とは何か。本質とは永遠相であるから、これは永遠相として観た私とは何か?という問いである。

スピノザの答えは自分の存在に固執する努力が、永遠相の私である、つまり私の本質であるということだ。私もその中に含まれる「おのおのの物」の永遠の本質は、存在する力はないが、存在しようとする力が含まれているということである。

私はいつも自殺者を反証例として考えるのだが、確かに自殺者は自己の存在に固執していないようである。そういえばスピノザ研究の第一人者であるドゥルーズも自殺したのであるが、これをどう考えるか。スピノザ自身は第四部定理18備考において、自殺者は「無力な精神の持主」と断じているが、スピノザにしては曖昧であり誤解をまねく発言である。たとえ「無力な精神」であっても、永遠の本質規定として「存在に固執する力」があるのだから矛盾している。

この疑問は「一時的な存在」の本質をよく考えてみることで解決できる。一時的な存在とは、外部原因がない限り存在し続ける物である。外部原因がないにも関わらず存在しない物は一時的にも存在し得ない。

したがって自殺者をその心理ではなく、存在としてみた場合、存在を続けている限り、つまり死の直前まで確かに存在しようとしているのである。それは無限に減少していく力であるから結果としてみると「無力な精神」であるかもしれない。だが、存在している限り、本質規定である「存在に固執する努力」はあるはずと考えられる。さもなければ、その努力は永遠の本質ではあり得ないことになる。

定理8は、この努力が「無限定な時間」を含んでいるとしているが、それは本質規定であるから、限定された時間、つまりこの時点まで存在し続けようという努力ではないということである。本質は時間によって限定されないのだから当然のことだ。

この諸定理は『エチカ』において重要な定理である。「あるかあらぬか、それが問題だ」ということで、スピノザは本質を存在との関わりのみで考えているようだ。神の本質は存在する力であるが、一時的存在である人間の本質には存在する力はない。だが無でもない。それは外部原因がない限り存在を続けるという意味で、存在に固執する力だ、というわけである。すると、生存本能こそが人間の本質ということになる。空虚で煩瑣な神学的議論が、フロイト精神分析に直結するのである。しかもスピノザによると生存本能は生物学的次元の問題ではなく、永遠の本質として、存在論的次元の問題でもある。

定理9 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。

この定理は延長物体だけでなく思惟属性としての精神にも同様にコナトゥス(自己の有への固執)を認めるものである。延長物体が様々な個物(原子など)で構成されるように、人間精神も様々な観念によって構成される。これらの構成関係それ自体もまた、外部に原因がある。この生成消滅と神との関係をスピノザはどう考えているか。

前にも触れたように、スピノザの独特の言い回しとして「変状した限り」という言い方がある。確かに万物は神を原因とするのだが、それは永遠相における本質としてであって、持続相においては外部に原因がある。その場合、その外部原因を「変状した限りの神」として捉えるのである。例えば私の精神も身体も永遠相でみると神を原因としているが、持続相においては親を原因としている。持続相においては親に「変状した限りの神」が私の外部原因となるのである。

つまり外部原因によって諸物(原子など)や諸観念が「私」という構成関係に入るように力が働くわけであるが、そしてそれは本質的には神の力であるが、ひとたび構成された関係は同様に外部原因により解体するまでは自己の存在に固執するのである。人間精神とは諸観念だけでなく、諸観念の構成関係でもあるから、明瞭判然な観念であろうと混乱した観念であろうと、構成関係それ自体にコナトゥスがあるのは当然のことである。

この定理9はむしろ備考が重要であり、そこでスピノザはコナトゥスが精神にだけ関係する時が意志であり、同時に精神と身体とに関係する時は衝動であるとしている。

人間は延長属性と思惟属性の二つが活性化した存在であるから、衝動が人間の本質であるとしている。付言すれば、事物は延長属性のみ活性化しているからコナトゥスはあるが衝動はない。神は無限の仕方で創造するのであるから力能の差異が生じるからであるが、それは事物が人間よりも不完全ということではない。スピノザは実在性を完全性と定義しているのだから、実在する物はすべてそれなりに完全である。

さらに欲望とは、意識を伴った衝動であると定義している。その含意は意識は意志ではないということだ。意志とは精神のコナトゥスとして衝動に含まれているからである。

意識とは身体変状の観念であり、受動的な結果である。したがって主体は衝動であり、意識は随伴しているに過ぎない。

ここから重要なことが帰結される。この備考の最後でスピノザは「善と判断する」がゆえに意志・衝動を感じるのではなく、意志・衝動を感じるがゆえに「善と判断する」としている。何故か?

スピノザは結論だけ述べているのだが、これまでの論理をたどると、この「善と判断する」が意識を指していることが分かる。スピノザは人間の本質を「衝動」としているのだから、意識はその衝動に随伴するものとして、人間の本質でもなければ主体でもないのは当然のことである。