『エチカ(上)』 スピノザ著 畠中尚志訳(その17)

第三部 感情の起源および本性について No5 

定理10 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである。

私の『エチカ』理解はとても充分なものではなく、とりあえずこのまま全体を読了してから、福居純の研究などを参照して再度考え直してみたいと思うのだが、『エチカ』の中にはこの定理のように関連する諸定理を総復習するような証明があるので、これまでの暫定的理解を整理するうえで便利である。

定理10証明 すべて我々の身体を滅ぼしうるものは身体の中に存することができない。

これは「定理5により」とあるが、あらためてそのことの意味を考えてみると、スピノザの本質観が独特であることが分かる。というか私が「本質」をあまり深く考えていないだけであるが。スピノザの本質が存在と結びついていることは前回触れたとおりだが、そのことは本質に含まれるものは必ず実現することを意味する。逆に言えば、現在かくかくしかじか在るということがそのまま本質に含まれるのである。そして本質に含まれないようなものは決して現実化しないのである。

個物同士は確かに力能の差によって対立し相争うものであるが、個物それ自体の本質は個物の存在を示しているだけである。その存在のあり方が自己原因(神)であれば本質は存在そのものであるし、一時的存在(様態)であればその本質は存在への固執となる。

ということは、個物が一時的にもせよ存在するということは、その本質に存在への放棄は含まれないということである。「身体の中に存することができない」というのは、身体の本質に身体を滅ぼしうるものが存し得ないということである。

現代人としては老化遺伝子などの反証例が思い浮かぶのだが、スピノザは「老衰死」をどう考えていたのだろうか? その論理からすると老衰もまた外的原因ということになりそうだ。

そこで定理5を参照してみると、「物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言い変えればそうした物は同じ主体の中に在ることができない」とある。

すると定理10の証明には飛躍がある。ここでスピノザは「物」と「身体」をすり替えているからだ。「物」の場合は、確かにその物の存在を否定するような本質を考えることはできないだろう。だが、個物によって構成される身体の場合はどうか? 癌細胞は身体細胞が変化したものであり、身体の構成関係を解体するように働く、つまり我々の身体を滅ぼしうるものが身体の中に存するのではないか?

身体と身体を構成する個物との関係は『エチカ』第二部要請で詳細に記述されているのだが、構成する同じ本性を持つ個物が入れ替わる場合(呼吸や栄養摂取のことであろう)、構成する個物の運動関係が維持される場合は、身体の形相(本質)は変化しないということである。

すると個物のコナトゥスと身体のコナトゥスを区分して考えるべきであろう。

個物のコナトゥスとしては癌細胞も健常細胞もともに自己の存在を否定するような本質をもっていない。だが身体の構成関係としてみると確かに癌細胞は身体の構成関係を破壊するように働く。だがその場合であっても身体の構成関係が破壊され死に至らない限り、構成関係としては存続している。

つまり病気や老衰により身体が衰弱していくことはあるが、その衰弱した状態は実在としてそれなりに完全であり、身体の本質である存在への固執は変化していないとみることができる。というか我々の身体は常に対立する個物を構成関係の中に含んで存在しているのであり、健康な状態も相対的な意味しかない。もちろん死によって身体の構成関係は消滅するのだが、その場合は現世の持続相においては、消滅したものの本質を問うことはできないのである。

こうしてみると癌細胞も個物としては自己否定しないし、身体の構成関係もたとえ衰弱しても構成関係がある限り自己否定はない。スピノザの本質観によれは、本質としてなしうることは必然的に現実の存在となる。逆にみれば、たとえ衰弱していても存在している限り、その本質には存在への固執が否定されず含まれているのである。現段階では一応、定理5をそのように解している。

定理10証明続き したがってそうした物の観念は神が我々の身体の観念を有する限りにおいて神の中に在ることができない。言いかえればそうした物の観念は我々の精神の中に在ることができない。

やはり私の読解は当たっているような気がする。定理10もその証明も、コナトゥス(存在への固執)を個物として一元的に捉えていたのでは、矛盾したことを言っているようにしか見えないからである。

つまり個物のコナトゥスよりも次元の高い身体の構成関係のコナトゥスを考える必要がある。なぜなら、どうみても身体の中に身体を破壊するような個物が含まれうるからだ。例えば毒を飲んだ身体がそうだ。確かに毒は外的原因かもしれないが、毒は身体の構成関係に浸透して身体の一部にならないかぎり、その構成関係を破壊することはない。

これが精神の段階になるとなおさらそうであり、我々は身体を破壊するような物の無数の観念を持っている。ウィルスも毒物も北朝鮮のミサイルもすべてそうだ。あるいは「自己否定」という観念をもつこともできる。

だから定理10が言っていることは、人間精神は知識として毒物や病原菌などの観念をもつことがないと言っているのではない。人間精神はそれらの観念によっても構成されているのだが、構成関係としてみた人間精神それ自体を破壊するような構成関係をもつことができないと言っているのである。

ドゥルーズが『差異と反復』で言っているように、ヘーゲル弁証法が贋のドラマであるというのはそういう意味ではないか。我々は「自己否定」という観念を持つことができるし、精神の自己否定によって歴史を説明する「弁証法」という観念を持つこともできるが、それらの諸観念によって構成された人間精神それ自体を破壊するような構成関係を精神が持つことはあり得ないということである。

ここで「我々の身体の観念を有する限りにおいて神」と保留しているのは、神は無限の観念を持つので、我々の身体や精神を破壊する観念も持ちうるからである。ただ、ここで「限り」と限定するのは、言わば神が我々に変状している限り、ということは我々の精神の内側ということだが、その範囲では自己の存在を破壊する観念を持つことができないと言っているのである。ややこしいがスピノザの論理的潔癖を示すものである。

以上から定理10の「我々の身体の存在を排除する観念」とは、ウィルスや病原菌などの個物の観念ではないことは明らかである。それらが我々の精神の中に現に存在していることは否定できないからである。ここで「精神の中に存することができない」というのは、そうした個物ではなく、身体という構成関係を否定し破壊するような観念である。また、身体の構成関係から離れてウィルスや病原菌を単体としてみるならば、同様に自己否定するようなウィルスや病原菌の観念を持つこともできないのである。スピノザの論理には、自己を含めてすべての存在の絶対的肯定がある。永遠の存在であっても、仮初めの存在であっても、あるいは人間にとって望ましくない存在であっても、それらの存在は本質の必然的な現れだからである。